「ザ・テラー」実在の登場人物と経歴データプロフィール
「ザ・テラー」は、19世紀のフランクリン隊の遭難をベースにした物語なので、登場人物のほぼ全員、具体的にはイヌイットのレディ・サイレンス(シルナ)以外全員実在の人物です。
特に探検隊の艦長、副長クラスについては、資料が残っているケースが多いので、経歴などの詳細が分かります。
Contents
フランシス・クロージャー
テラー号の艦長でフランクリン隊長の死後は隊長になる「ザ・テラー」の主人公。
正式にはフランシス・ロードン・モイラ・クロージャー(Francis Rawdon Moira Crozier)。
1796年生まれなので、「ザテラー」の中で描かれる北西航路探検に出発した時(1845年)の年齢は49歳。
アイルランドの弁護士ジョージ・クロージャーの13番目の子で五男でした。
13歳で英国海軍に入隊し、以来様々な探検に参加しています。
1821年にはエドワード・パリーの北西航路探検の一員として北極圏を旅します。
パリー探検で越冬したイグルーリクで現地のイヌイットと交流を持ち、イヌイットから「アグルカ」と呼ばれていました。
「アグルカ」とは、イヌイットの言葉で「大股で歩く男」という意味で、強靭で豪放な人物というニュアンスが込められているようです。
この時フランシスはまだ20代の見習い士官でしたが、「いつか隊長になってここへ戻って来る」と宣言していたというイヌイットの証言があります。
パリー隊には、ジェームズ・ロスもいて、この探検中にふたりは友人になります。
1840年、ジェームズが隊長として南極を探検することになると、フランシスは副隊長に任命され、エレバスとテラーの2隻で南極を目指します。
この時フランシスが艦長を務めたのもあのテラー号でした。
南極へ向かう途中、オーストラリアに立ち寄り、当時のタスマニアの副総督だったジョン・フランクリンの歓迎を受けます。
その頃ソフィア・クラクロフト(当時24歳)も伯父のフランクリンの公邸に暮していました。
44歳まで結婚はおろか恋愛らしいことすら経験のなかったフランシスは、生涯で一度きりの恋に落ち、ソフィアに求婚しますが、退けられます。
失恋が関係していたがどうかは判然としませんが、フランシスは、南極にいる間にうつ病にかかってしまいます。
帰国後、再会したソフィアへの二度目のプロポーズに破れると、イタリアに傷心旅行に出かけますが、北西航路探検のためにイギリスへ戻り、フランクリン隊の副隊長として再びテラー号に乗船しました。
この時、フランクリン卿よりも極地をよく知り、若く、身体健康上の問題もなかったフランシスが隊長に選ばれなかったのには、身分の低さが関係していると言われています。アイルランド人だったことも影響していたでしょう。
うつを抱えながら、また自分よりも極地経験の浅いフランクリンの部下の地位に甘んじながら、フランシスがこの探検に赴いたのは、フランクリンの姪ソフィアへの最後のアピールだったと、はっきりそう書いているサイトもあります。
参考:An unsung Arctic hero|THE IRISH TIMES
出発する時にもまだ精神状態は回復していなかったようで、「生きて帰れるとは思っていない」と友人に話していたとさえ伝えられています。
「隊長になって戻って来る」と豪語していたアグルカのフランシスはどこへ…。
うつに悩みながら、北極圏の極夜を過ごすのはどんなに辛かったことでしょう。
現在では、故郷のアイルランド、バンブリッジにフランシスの像が建てられています。
Crozier Francis|Climate Policy Watcher
ジョン・フランクリン
北西航路探検隊の隊長でエレバス号艦長。
1786年生まれで、ナポレオン戦争やトラファルガー海戦などにも軍人として参加したことのあるフランクリンは、北西航路探検に出た時には59歳でした。
実はフランクリンは、かなりの苦労人です。
1819年に20人の隊員を率いてカナダ北部の北極圏を陸路で探検しますが、ひどい飢餓に襲われ、苔を食べながら生き延びました。
あまりの空腹にブーツの革をちぎって食べたことから、「靴を食った男」と呼ばれるようになります。
1836年、ヴァン・ディーメンズ・ランド(現在の豪州タスマニア地方)の副提督に就任。
二番目の妻ジェーンと姪のソフィア・クラクロフトとともにタスマニアに移り住みます。
ここでフランクリンは、囚人たちの劣悪な労働環境を問題視し、改革に乗り出しました。
ところが、既得権にどっぷり浸かった現地の役人たちにこの改革は受け入れられず、激しい反発にあった末1843年には罷免されてしまいます。
英国へ失意の帰国をしたフランクリン卿は、この時57歳。
自身はナイトの称号を得ていて、妻ジェーンには莫大な資産があり、静かな余生を過ごしてもよかったはずですが、2年後の北西航路開拓の指揮官を強く志願します。
適任であると考えられていたエドワード・パリーやジェームズ・ロスが辞退したこともあり、高齢のジョン・フランクリンが隊長に決まりました。
タスマニアの改革に頓挫したフランクリンは、何か大きな仕事を成し遂げずに現役を退くことが出来なかったのかもしれません。
サー・ジョン・フランクリンの名は、皮肉にも隊員全員死亡という悲劇に終わった最後の探検によってよく知られるようになってしまいましたが、故郷スピルズビーとロンドン、タスマニアの3か所にフランクリンの像が建ち、「北西航路の発見者」であると刻まれています(事実とは違う)
またオーストラリアでは、タスマニアに尽くしたフランクリンは尊敬の対象とされ、オーストラリア紙幣に肖像画が使われていた時代もありました。
死亡日は1847年6月11日とキング・ウィリアム島に残されたメモによって明らかになっていますが、墓地や遺体は発見されていません。
「緩慢の発見」という本がフランクリン卿の伝記的小説です。
子供の頃からフランクリンの大ファンだったというドイツの作家が書いた本で、フランクリンのキャラにはかなりの想像と脚色がありますが、大きなイベントはほぼ事実に沿っています。
Sir John Franklin|Monument Australia
ジェームズ・フィッツジェームズ
エレバス号の副長。
フランクリン卿が高齢だったためか、エレバスの事実上の艦長はフィッツジェームズで、フランクリン卿は隊全体の重要事項を決定する際の顧問のような立場だったようです。
1813年生まれなので北西航路開拓の旅に出た時は32歳でした。
死亡日は明らかになっていませんが、1848年に死亡したとすると35歳だったことになります。
「ザテラー」の中でフィッツジェームズがフランシスに告白する自身の出自は、すべて事実です。
詳細はこちらに
11 ザ・テラーの中の実話:フィッツジェームズの出自
このフィッツジェームズという人は、スーパーヒーロー級のキャラクターでした。
優れた容姿で体格も良く、上司の信頼をやすやすと勝ち取る社交術と人を魅了するカリスマ性をそなえ、教養高く、ユーモアのセンスに長けている上に、文章や絵の才能も…
Wikipediaに書いてあることを、ほぼそのままを訳すとこうなってしまうのですが(笑)、完璧な人?
生還していたら、大きな成功を手に入れることもあった人でしょう。
ジェームズ・クラーク・ロス
フランクリン隊の探検には参加していませんが、重要な人物なので取り上げておきます。
「ザ・テラー」では、隊を捜索に来て、イヌイットに話を聞いているのがジェームズ・ロスです。
ジェームズ・クラーク・ロスは、1800年イギリスの生まれで、フランシスより4歳年下です。
偉大な極地探検家ジョン・ロスの甥で、探検界のサラブレッド的な人物だったジェームズは、エドワード・パリーの第二次北西航路探検(フランシスがイヌイットにアグルカと呼ばれるようになった探検)にも参加していて、この時フランシスと友人になります。
ジェームズは、その後も輝かしい極地探検歴を重ねます。
1839年には隊長として副隊長フランシスとともに南極へ赴き、大きな成果を挙げました。
南極ロス島のエレバス山、テラー山という二つの火山は、この探検で発見命名された山で、最東端の岬には「クロージャー岬(Cape Crozier)」と副隊長フランシス・クロージャーの名がつけられています。
南極から帰るとナイトの称号を得て、アンと結婚。
「ザ・テラー」の観劇シーンで、ジェームズの隣に座っている女の人がおそらくアンでしょう。
イギリスで北西航路完成のための探検の話が持ち上がった時、ジェームズ・ロスは、パリーに次ぐ隊長候補の本命でした。
ジェームズがそれを断ったのは、若い妻アンと「もう北極へは行かない」と約束したから。
それでも1848年には、フランクリン隊の捜索に向かっています。
アンを説き伏せたのか、それとも、もう「好きなとこ行けば?」な空気になっていたのか(笑)
北西航路遠征序盤、デンマークの基地からフランシスがジェームズに出した手紙には、「君がいてくれたらいいのに」と哀れなまでに寂しさを訴える文面が綴られています。
手紙についてはコチラにも
1 ザ・テラーの中の実話:フランシスとフィッツジェームズは良好な関係ではなかったっぽい
フランシスがイヌイットとしてあの土地で暮らすことになるのは、「ザ・テラー」の創作ですが、あの場面のフランシスは、どんなにか会いたかったはずのジェームズが奥様との約束を破って探しに来たのを知りながら、対面せずにいたことになります。
Francis Crozier Letter to James Ross (1845)|The FRANKLIN Mystery
ハリー・グッドサー
1819年生まれのグッドサーは、フランクリン隊の出港時26歳。
祖父と父親(どちらも名前はジョン)が医者、兄は細胞研究の先駆者でエディンバラ大学の教授、弟は英国外科医のロイヤルカレッジの会員資格を持つ医師というスコットランドの医師一家の生まれでした。
兄の(この人の名前もジョン)著書には、ハリー・グッドサーの動物学、解剖学、病理学の知見が加えられたものもあるそうで、しかもこの本は今も販売されています。Anatomical and Pathological Observations
ところでグッドサーのものと思われる骨は発掘されています。
骨は埋葬されていたそうで、遺体は「ザ・テラー」のような扱いは受けていない可能性が高いようです。
詳しくはこちらに
18 「ザ・テラー」出版後に判明した事実:グッドサーの遺体はきちんと埋葬されていて食べられた可能性は低い
ドラマ「ザ・テラー」では隊員の心のオアシスのような存在だったグッドサー。
実物もとてもよい人だったみたいです。
詳しくはこちらに
2 ザ・テラーの中の実話:グッドサーは勤勉で探検隊の太陽だった
ジェーン・フランクリン(フランクリン夫人)
1791年生まれのレディ・ジェーンは、夫フランクリン卿より5つ年下です。
フランクリンは、1825年のカナダ北部の探検中に最初の奥さんに死なれていて、レディ・ジェーンは2番目の夫人です。(亡くなった奥様の友達でした)
フランクリンがタスマニアの副提督を務めていた頃、夫とともにタスマニアの発展に尽力したジェーンの名は、今もオーストラリアでよく知られているようで、その慕われぶりは、タスマニアの大学の建物につけられた「ジェーン・フランクリン・ホール」という名からもうかがい知ることができます。
フランクリン隊が行方不明になると、政府に捜索を訴え、私費で捜索隊を北極へ派遣したのも「ザ・テラー」にあるとおりです。
ジェーンには父親から受け継いだ莫大な財産がありました。また、北極圏に関する知識も深かったそうです。
晩年のジェーンは、世界各地を旅しています。ジェーン自身にも探検家の資質があったのでしょう。
渡航先は、アラスカ、南北アメリカ、ハワイ、インド、日本…。日本!?
ジェーンがいつどんなルートで日本のどこに来たのかは、不明です。
でも、開国直後の日本を訪れた数少ない欧州女性のひとりだったことは確かです。
Lady Jane Franklin|National Geographic
Lady Jane Franklin|Australian Museum
ソフィア・クラクロフト
1816年イギリス生まれ。フランシスとは20歳離れています。
ジョン・フランクリンの姪(妹イザベラ・フランクリンの長女)
1836年から1843年をタスマニア副提督だった伯父フランクリンの邸で生活していて、南極探検に向かう途中でオーストラリアに立ち寄ったフランシス・クロージャーに出会います。
フランシスは、この時と英国帰国後の2回、ソフィアに求婚しますが、ソフィアは2回とも断りました。
ソフィア自身の結婚に関する情報はまったく発見できず、家系をまとめたサイトにもソフィアの配偶者は表示されません。
1892年に76歳で亡くなるまで、生涯結婚しなかったのでしょう。
フランシスの友人が「彼女は男のようだけれども男ではない(から探検を理解できないし、探検家の妻にはなれない)」とフランシスを慰めたと伝えられているとおり、深窓令嬢という雰囲気ではなく活動的で男性的な女性だったようです。
伯母のフランクリン卿夫人ジェーンとは血がつながっていませんが、フランクリン隊遭難後も行動を共にし、一緒に世界各地を旅しました。
ジェーン・フランクリンの項で前述の通り、日本にも旅行しています。
Cracroft, Sophia, 1816-1892|snac
実物のソフィア・クラクロフトについては、これくらいしか分かりませんでしたが…実は、原作「ザ・テラー極北の恐怖」では、ソフィアの登場場面がとても多く、ドラマとは印象が違います。
ドラマにもフランクリン卿がソフィアに、フランシスへの思わせぶりな態度を控えるようたしなめるシーンがありますが、原作を読むと、思わせぶりの範疇など軽く超えています。
もちろんフィクションですが…現実でも同じ相手に複数回ふられたという話はたまにあって、よく聞いてみると、かなり強めの脈ありサインを発信されていてのことだったりしますよね…。
コーネリアス・ヒッキー
コーネリアス・ヒッキーという隊員は実在の人物です。
アイルランド出身というのも本当ですが、あのキャラはもちろん創作です。
もっともドラマ「ザ・テラー」のヒッキーは、乗船前にコーネリアス・ヒッキーを殺してすり替わった偽物なので、あのヒッキーとこのヒッキーは同じ人ではないのですが。
(原作には替え玉設定はない)
テラーに乗船した本物の「コーネリアス・ヒッキー」については、アイルランドのリムリック生まれで出航当時24歳だったと記録が残っています。
ヒッキーについて分かることはこれだけですが、柄の部分に「HICKEY」裏側に「HC」と彫られたナイフがキングウィリアム島の近くで発見されています。
ナイフはイヌイットがバック川の河口で拾って保管していたもので、現在はグリニッジの国立海洋博物館に所蔵されています。
バック川こそ、生き残りの隊員を率いるフランシスが徒歩で目指そうとした川です。
フランシス達は、船を棄ててキング・ウィリアム島を陸路で南東へ進み、海を渡ってカナダ北部の不毛地帯を流れるバック川に入ろうとしていました。
バック川をさらに南下したところにある毛皮の交易所ハドソン湾会社に向かおうとしていたのです。
餓死の入り江が、フランクリン隊の終焉の地と言われていますが、バック川河口は、餓死の入り江よりだいぶ先にあります。
そのバック川でヒッキーのナイフが発見されたということは、隊員の一部は、バック川までたどり着いていたということ?
バック川に近いモントリオール島でボートの残骸が発見されたことも実際にありました。これはイヌイットが拾って運んだものかもしれないという理由から、フランクリン隊到着の証拠とはみなされていないので、ヒッキーのナイフも同じような扱いなのでしょう。
イギリスへ帰還できた隊員がひとりもいないことがハッキリしている以上、どこで全滅しても同じだろうと考えるのが妥当なのでしょう。
でも、わずかでも先まで進むことのできた隊員がいたとしたら、うれしいなと思います。
北西航路探検についてはコチラに
ザ・テラーに含まれる実話についてはコチラに