ヘンリー8世の世継ぎ問題は梅毒ではなく血液型が原因?Kell+と胎児の流産
ヘンリー8世は6度結婚したイングランド国王として知られていますが、王妃らが産み健康に育った子供は全部で3人、愛人の子を含めても4人だけでした。
子供ができにくかったわけではありません。たとえば最初の妻キャサリン・オブ・アラゴンは少なくとも5回(8回という説も)妊娠しています。
ただ、流産や死産が多かったのです。
長らくこれはヘンリーが梅毒にかかっていたからだと信じられていました。
ヘンリーから王妃へと感染した梅毒が、流産死産を引き起こしていたのだという仮説です。大学の授業でさえそう教えているとも言われるほど広く深く支持される説なのですが、最近は、これは誤りと見られているようです。
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ヘンリー8世は梅毒ではなかった?
梅毒は、大航海時代にコロンブスが欧州に持ち帰ってしまった病気とも言われ、その真偽は明らかになっていませんが、ヘンリー8世が生きた時代の欧州に存在していたことは確かです。
なのでヘンリーが梅毒だったという仮説も成り立つのですが、ヘンリーのそれらしい症状や治療の記録は見つかっていません。
同じ時代のフランス王、フランソワ1世は梅毒の治療のために水銀を処方されていたと明確に記録されています。
水銀で梅毒が治療できるはずがない上に、後々の研究でフランソワは梅毒ではなく淋病だったのではないかとも言われているのですが、危険な治療法にせよ誤診にせよ、梅毒には水銀というメソッドが存在したのは事実なわけで、ヘンリーも梅毒だったとすれば同じように水銀を処方されそうなものですが、そうした記録がないのです。
フランソワ1世の治療記録によると、水銀投与は9週間ほど続けられるのが基本で、投与中は唇が膨れ上がり、よだれやら汗やらでとにかくエラい状態になるものだったそうです。
この治療を秘密で遂行しきれるとは思えませんし、各国大使がこの派手な症状を自国に報告しないわけがありません。
キャサリン・オブ・アラゴンとの結婚は1509年、最初の流産は1510年でした。
もしもヘンリーがその頃から梅毒に感染していたとすると、死亡する1547年まで37年ほどあります。その間、梅毒の症状である発疹等を見たという報告も治療したという記録もありません。
王族の入浴や着替えは側近が手伝うもので、一定数の人物が王の体を見ているはずですし、性感染症というスキャンダラスなネタが宮廷にまったく広まらないとは考えにくいでしょう。
梅毒には目に見える症状が出ないケースもあり得ますが、ヘンリー自身だけでなく、王妃にも子供たちにもそれらしい記録がありません。
こうなると、梅毒説はヘンリー8世の「女関係の派手な王様」というイメージから生まれた噂話が、面白さと分かりやすさで支持を得てきただけのものといった雰囲気になりますが…が!
ヘンリー8世の王妃は流産死産が多い
梅毒説が信じられる理由はなにもヘンリーの女癖のせいだけではないですよね。
ヘンリー8世を語るとき忘れてはならない要素のひとつに、王妃の流産死産の多さがあげられます。
様々な要因が流産の原因になり得ますが、キャサリン・オブ・アラゴンだけでなく、アン・ブーリンも複数回の流産を経験しているとなると、もしや夫側の「何か」が影響していたのでは?と考えたくもなり、そこに梅毒説がマッチするわけです。
でも、前述のとおり、王とすべての王妃、その子供たちに梅毒の症状があった形跡はありません。
なぜヘンリーの妻は流産しやすかったのでしょう。王妃が流産しやすいということは、王位継承者が誕生しにくいということであり、これはヘンリーの生涯のテーマのようなものですが…
ヘンリー8世の血液型がKell+だったという可能性
近年浮上した説がこれです。「ヘンリー8世はKell(ケル)ポジティブだったために王妃の流産死産が続いた」
Kell(+)とは
血液型にはいくつかの分類法があります。最も一番一般的なABO式のほか、Rh式もよく知られています。
Kell式とは、それら血液型の分類法のひとつで、Kell+とKell-に分別されます。
赤血球の表面にKell抗原が結合が結合しているとKell+(ケルプラス、ケルポジティブ、ケル陽性と呼ばれます)、結合していなければKell-(ケルマイナス、ケルネガティブ、ケル陰性)。
マイナスの人が圧倒的に多く、日本ではKell+の人が発見されたことはないそうです。
ヘンリー8世は、この珍しいKellポジティブだったのではないかというのが、最近有力視されている説です。
Kell+だと何が問題なのか
血液型がKellポジティブであってもそれ自体が本人の命の脅かすわけではありません。問題はKellネガティブ女性がKellポジティブ男性の子を妊娠し、その胎児がKellポジティブだった時に起こります。
Kellネガティブの母親がKellポジティブの子供を妊娠した場合、これは血液型不適合に該当します。
母体は胎児のKellたんぱく(抗原)を異物と認識して抗体を作ります。
抗体は胎盤を通じて胎児の赤血球を破壊するので、胎児は貧血状態になり進行すれば胎内で死んでしまうのです。
Kellネガティブ女性のKellポジティブ胎児妊娠が必ず失敗するわけではありません。たいてい一度目の妊娠は出産まで胎児をおなかに置いておけると言われています。
最初の妊娠期間のスタート時点にはまだ体内に抗体がなく、胎児への攻撃もありません。抗体は徐々に増えていきますが、10か月程度の間であれば流産に至るほどの問題は起こらないことが多いようです。
問題は2度目以降の妊娠です。(胎児がkell+のケースの2度目以降という意味です)
Kellネガティブ女性(つまり大多数の女性)が妊娠によって体内にKellに対する抗体を持ったケースで、再度Kellポジティブの胎児を妊娠すると、今度は妊娠期間の初めから体内にKell抗原に対する抗体があることになり、その抗体が胎児を攻撃し続けてしまうので、無事の出産に至るのが難しいのです。
一度以上Kellポジティブ胎児を妊娠して体内に抗体を持つ女性でも、Kellネガティブの子供を妊娠した場合にはこれを攻撃する理由がないので、通常の妊娠と変わらず出産することができます。
Kell+は顕性遺伝(優性遺伝)ヘンリーの子は50%の確率でKell+
顕性遺伝=優性遺伝のことです。
優性遺伝、劣性遺伝という言葉は、遺伝子に優劣があるような誤解を受けやすいというのでそれざれ「顕性遺伝(けんせいいでん)」「潜性遺伝(せんせいいでん)」という用語に置き換えられました。
参考:優性遺伝と劣性遺伝に代わる推奨用語について|一般社団法人日本循環器学会
Kell-の女性がKell+の胎児を妊娠した場合に流産死産が起こりやすいという話をしました。
今度は、胎児がKell+になる条件を考えてみます。
Kellはプラスが顕性遺伝します。配偶子-/-ならKell-、+/+ならKell+、これは当たり前ですが、+/-はKell+になるってことです。
メンデルの法則です。
これまでKell式の血液型をプラス(+、ポジティブ)とマイナス(-、ネガティブ)とあっさり言ってきましたが、血液型というのは両親からひとつずつ受け継いだ配偶子ふたつがセットになって決定するものです。
マイナスの配偶子とマイナスの配偶子の組み合わせなら(-/-)、マイナスとプラスなら(-/+)、プラスとプラスなら(+/+)と、内訳明細みたいなものが存在するわけです。
で、マイナスとマイナスの(-/-)の血液型はそのままKell-、Kellネガティブに、プラスとプラスならKell+、Kellポジティブになりますが、マイナスとプラスの配偶子を受け継いだ(-/+)の血液型はKellポジティブになる、(-/+)の人の赤血球にはKell抗原が存在するってことです。
ヘンリー8世の場合で説明しましょう。
ヘンリーがKellポジティブだった場合…ヘンリーの持っている配偶子は+/+か+/-が考えられます。どちらの場合もKellポジティブですが、+/+になるのは、両親ともにKellポジティブだった場合だけなので、人口の大半がKellネガティブであることを考えると、おそらく+/-だったでしょう。
…できる子供の配偶子組み合わせパターンはこう↓なります。
HenryVIII(+/-) | |||
+ | - | ||
Queen (-/-) | - | (+/-) | (-/-) |
- | (+/-) | (-/-) |
+/-はKellポジティブなのでKell式血液型はこう↓
HenryVIII(+/-) | |||
+ | - | ||
Queen (-/-) | - | Kell+ | Kell- |
- | Kell+ | Kell- |
ヘンリー8世の子は、2分の1の確率でKellポジティブです。
ヘンリー8世の妊娠させ歴を振り返る
子宝に恵まれなかった印象のあるヘンリーですが、妊娠させる頻度は結構なものでした。
流産が多く、いつの間にか子を産めない人のように思われてしまったフシのあるキャサリン・オブ・アラゴンも、男の子を産んでいたら死刑にはならなかったかもしれないアン・ブーリンも妊娠は頻繁でした。
※メアリー・ブーリンの産んだ二児もヘンリーの子ではないかという説もありますが、はっきりしないと言いますか、時期的にそれはないだろうと思うのでここでは省いています。
まず最初の王妃キャサリン・オブ・アラゴンの妊娠歴から
1510年1月 | 女児死産 |
1511年1月 | 男児出産(2月に死亡 原因は不明) |
1511年9月頃 | 妊娠の噂→立ち消え |
1513年10月 | 男児流産 |
1515年2月 | 男児ほぼ死産 |
1516年2月 | 女児出産(メアリー) |
1517年8月頃 | 妊娠の噂→立ち消え |
1518年秋頃 | 妊娠の噂→立ち消え |
キャサリンとヘンリーの結婚は1509年です。
9年ほどの間に確実なものだけで5回、公式に発表されないまま噂だけで消えたものも含めると8回妊娠したことになり、これならむしろ妊娠しやすい体質とさえ言えるでしょう。
ヘンリーがKellポジティブだったと仮定してキャサリンのケースを当てはめてみると…
大前提としてキャサリンが妊娠する胎児は2分の1の確率でKellポジティブです。
最初のKellポジティブベビーの妊娠でキャサリン(Kellネガティブ)の体内にKell抗体が発生します。母体にとって初めてのポジティブ胎児であれば10か月おなかに置いておけるので、その子は産むことができます。なので最初の(1510年の)女児死産は、いずれにしろ(その女児がKellポジティブだったとしても)これが原因ではありません。
いずれかの妊娠でキャサリンの体に抗体ができると、その次の子からはポジティブ胎児なら流産の可能性がとても高く、出産までたどり着けるのはネガティブ胎児だけということになります。
何番目の妊娠が最初のK+胎児だったかは分かりませんが、早い段階でポジティブの子を妊娠したと考えるのが妥当でしょう。初めての妊娠か2度目の妊娠がそうだったかもしれません。
5度目(あるいは6度目)の妊娠で授かったメアリーは、Kellネガティブだったのでしょう。
愛人ベッシー・ブラントはヘンリー・フィツロイが初産
ヘンリー8世は愛人エリザベス・ブラント(呼び名ベッシー)の産んだ男の子ヘンリー・フィッツロイを我が子と認知しています。
ベッシーの妊娠出産はこれが最初でした。
1519年6月男児出産(ヘンリー・フィツロイ)
ヘンリー・フィツロイの血液型がKellポジティブだったのかネガティブだったのかはもちろん分かりません。
いずれにしろベッシーはその後ヘンリーの子を妊娠していないので、フィツロイがK+でベッシーの体内に抗体ができていたとしても関係ありません。
ベッシーはその後2度結婚し、1522年から1539年の間に6人の子供を産んでいます。
アン・ブーリンはモデルケースか
2番目の王妃アン・ブーリンも、ヘンリーと結婚してすぐに妊娠しました。
キャサリン・オブ・アラゴンとの婚姻を無効としてアンと結婚する過程の最終局面が妙に早く進展したのは、アンが身ごもっていたからだという見方もあるほどです。(結婚前に産まれた子は後々王位継承権を疑われやすいので)
1533年9月 | 女児出産(エリザベス) |
1534年2月頃 | 妊娠の噂→立ち消え |
1534年秋頃 | 妊娠の噂→立ち消え |
1535年6月頃 | 妊娠の噂→立ち消え |
1536年1月 | 男児流産 |
アン・ブーリンは何度流産したのか。最後の男の子以外は、はっきりとわかっていません。
ただ、エリザベスと最後の流産の間にたびたび「ご懐妊?」と噂が流れたことは、宮廷人が書いた手紙から確認されています。
早い段階での流産で発表されなかったのかもしれませんし、一部はアンの想像妊娠だったかもしれないと言われています。
アンの場合、最初の子エリザベスは無事に生まれました。
エリザベスがKellポジティブだった可能性は2分の1ですが、後の経過を見るとその可能性が高いように感じられます。
ここでアンの体内にKell抗体が作られ、1536年に妊娠した男児もまたKellポジティブだったので流産してしまったとすれば理屈は通ります。
1536年の流産の直前にはヘンリーが落馬して意識を失う事故があり、この精神的ショックが原因とも言われます。もちろん無関係ではないでしょう。
ただ、すでにアンがKellに対する抗体を持っていてのKellポジティブ胎児だった場合、何もなくても同じ結果になる運命だった、その時期が早まっただけとも言えます。
初産後すぐに亡くなったジェーン・シーモア
3番目の王妃ジェーンは、ヘンリー8世の次にイングランド王となるエドワードを産みました。
1537年10月 | 男児出産(エドワード) |
ジェーンの妊娠も結婚後半年くらいのことで、こちらも早い妊娠でした。
無事に生まれた子が待望の男の子で、イングランドは祝賀ムードに湧きましたが、ジェーンは出産の12日後に産褥熱で死んでしまいます。
ジェーンが生きていた場合、その後の妊娠出産がどのようになったのかは分かりません。
1女性1児のヘンリー
ジェーンの死後、ヘンリーはさらに3人の妃を娶りますが、子供はできませんでした。
4人目アン・オブ・クレーヴスとの結婚はおそらく成就していなかったでしょう。5人目のキャサリン・ハワードは、妊娠することなく結婚後2年足らずで処刑され、最後の王妃キャサリン・パーは妻というより看護婦のような立場だったと言いますから、もうヘンリーに生殖能力はなかったかもしれません。
まとめますと…
ヘンリー8世は、4人の女性を9回から15回妊娠させましたが、乳児期を過ぎるまで育った子供は4人だけ。
どの母親もヘンリーの子は1人だけです。
ヘンリーがKellポジティブだったとすれば納得のいく話です。
Kellポジティブはいつ英国王室にやってきたのか
ヘンリー8世の血液型はKell+だった可能性が高いというお話をしてきましたが、これはレアな血液型です。
一体いつ王室にKellポジティブの血が入ったのか…確かめようのないことですが、どうやらヘンリーの母方の曾祖母ジャケッタが男系の育ちにくい家系だったようで、ここがきっかけではないかと見られているそうです。
ジャケッタなるほど!
ジャケッタはフランス出身の貴族女性でフランス名はジャケット・ド・リュクサンブールです。
フランスで生まれ育ちましたが、夫と死別した後イングランドへ渡り、リチャード・ウッドヴィルと再婚。
リチャードは王族ではない一貴族でした。その妻の血がどうして王家に?と、ここがドラマティックといいますか運命的といいますか…
この頃イングランドは、赤薔薇を徽章とするランカスター家と白薔薇を徽章とするヨーク家で王座を争うバラ戦争の最中でした。
色々あって…
ヨーク家が王位を奪い、エドワード4世が王座につきます。
ランカスター派のウッドヴィル家は経済的に困窮し、ジャケッタの娘エリザベス・ウッドヴィルはエドワード4世に領地の返還を直訴するため宮廷へ。あまりに思い切った行動でしたが、この時エドワード4世はエリザベスに恋してしまいます。
すぐにエドワード4世とエリザベス・ウッドヴィルは結婚し、ここでウッドヴィル家は白薔薇ヨーク派に鞍替えしました。
その後さらにいろいろあり…
エドワード4世の弟リチャード3世が王の座につきました。
さらにまたいろいろあり…
ランカスター側ヘンリー・チューダー(後のヘンリー7世)がヨーク朝の王リチャード3世を倒して新しく開いた王朝がチューダー朝です。
ヘンリー7世の軍はリチャード3世を討ち取りはしましたが、ヘンリーの王位継承順位は元々低く、実際のところ「こんな子いたっけ?」くらいの立場だったので、王位に説得力を持たせるためにヨーク家の王女エリザベス・オブ・ヨークと結婚し、ヨーク家とランカスター家を融合させた新王朝として周囲を納得させたのでした。
このエリザベス・オブ・ヨークは、エリザベス・ウッドヴィルの娘、ジャケッタの孫娘です。
で、ヘンリー7世とエリザベス・オブ・ヨークとの間の子がヘンリー8世です。
ジャケッタ自身がKell+で、娘エリザベス・ウッドヴィルもその娘エリザベス・オブ・ヨークもKell+だったと考えられます。
母体がKell+でも出産には影響しないので、脈々と受け継がれてきたのでしょう。
エドワード4世と敵方ランカスター派の未亡人エリザベス・ウッドヴィルとの電撃結婚は周囲を驚かせ、側近を憤慨させるものでした。
この時Kellポジティブの血脈が王家に入り…と言ってもそれはヨーク朝なのですが、後にランカスターサイドのヘンリー・チューダーが政治的意図から王妃に迎えたエリザベス・オブ・ヨークによってその血が運び込まれたのだとしたら、王位を強化するための結婚がチューダー朝を短命に終わらせる結果になったともとれます。
でも分かりません。そう簡単には言えません。
ヘンリー8世にもっと多くの男児がいた場合、英国史上五指に数えられるという名君エリザベス一世は誕生しなかったでしょう。
歴史におけるチューダー朝の存在感の大きさはエリザベス一世あってのもので、王朝時代の長さなど問題ではないのかもしれません。
Blood will tell
ヘンリー8世の血液型が王位継承者難の原因だったという仮説をフォローする文献は、2022年春時点では英語のものしか見つかりません。
英語のものならわりとたくさんあるのですが、大半は論文です。
その中で、とても分かりやすく詳細に書かれている書籍がこちら↓
この本は、ヘンリー8世がKellポジティブだったという仮説に基づいて歴代の王妃の生涯を追う形で書かれたノンフィクションです。
血液型とは関係ない話もたくさん入っていますが、それだけに創作ではない史実がよく分かります。
比較的簡単な英語で読みやすいので、英語嫌いじゃない人はぜひ。