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沈黙-サイレンス-あらすじ感想原作小説情報とロドリゴの信仰について

2018年12月31日

マーティン・スコセッシの映画「沈黙-サイレンス-」のあらすじ感想、原作情報など。

遠藤周作の傑作小説「沈黙」をアメリカで映画化した作品です。

スコセッシが「沈黙」という小説を知ったのは、映画「最後の誘惑」の試写会のときだったそうです。

同じくスコセッシの監督した「最後の誘惑」には十字架上のキリストが淫夢を見る場面があり、衝撃作と言われる作品ですが、「沈黙」は、根源的な宗教への問いが中心的なテーマとなる問題作です。

「最後の誘惑」はAmazonビデオで見られます。

沈黙-サイレンス-の登場人物

イエズス会

セバスチャン・ロドリゴ…イエズス会神父

演:アンドリュー・ガーフィールド

恩師フェレイラが日本で棄教したと聞くが、容易に受け入れられず、フェレイラを助けようと来日する

フランシス・ガルペ…イエズス会神父

演:アダム・ドライヴァー

ロドリゴとふたりで長崎へ来る神父

フェレイラ(沢野忠庵)…イエズス会神父だった人

演:リーアム・ニーソン

ロドリゴたちに先立って日本へ布教に来ていた司祭

ポルトガルへの連絡が途絶え、信仰を捨てて日本人として生活していると噂されている

バリリャーノ…イエズス会神父

演:キーラン・ハインズ

イエズス会の相当えらいっぽい人

ロドリゴとガルペは、来日当初バリリャーノ宛てに手紙を書いているが、キリシタン狩りから逃げるうちに手紙を送れなくなる

長崎のキリシタン

トモギ村

イチゾー…じいさま

演:笈田ヨシ

トモギ村信徒のリーダー的存在。

村で洗礼の儀式をできるのはこの人だけらしい

おそらく以前の来日司祭からその許しを受けたということでしょう

モキチ…トモギ村信徒

演:塚本晋也

トモギ村信徒のナンバー2っぽい立ち位置

五島

キチジロー…ロドリゴらをマカオから日本へ案内する漁師

演:窪塚洋介

8年前に踏み絵を踏んでいる

その時、家族は全員踏み絵を拒否し、火あぶりの刑で死亡

漂流中にマカオ人に助けられマカオで暮らしていたが、ロドリゴとガルペを案内する形で長崎へ戻る

キリシタン弾圧勢力

井上さま…長崎奉行

演:イッセー尾形

井上様と恐れられる奉行

通訳者

演:浅野忠信

司祭から言葉を習った経験からロドリゴと奉行の通訳をしている

名前はあるかもだけど不明

沈黙-サイレンス-のあらすじ

序盤のネタバレです。

江戸時代、キリスト教の禁止されている日本にはいまだ布教を続けるイエズス会神父がいましたが、その一人である司祭フェレイラは長いこと消息を絶っています。

棄教したのだと噂されるフェレイラを師と仰ぐロドリゴガルペは、フェレイラの身に何かあったのだと考え、日本へ渡ることを決意します。

ふたりは、日本へ入国する前に立ち寄ったマカオで、キチジローと名乗る日本人に引き合わされました。

マカオ人がキチジローをキリシタンだと紹介すると、キチジローは「私はキリシタンではない」「キリシタンは殺される」と大変な剣幕です。

マカオの盛り場でキリシタン弾圧の恐ろしさを知る者はキチジローだけ。

ロドリゴもガルペもあっけにとられています。

船が着いた長崎トモギ村で隠れキリシタンたちに感涙とともに迎え入れられたふたりの司祭は、命までも危険にさらしながら受け継がれる信仰の強さに感じ入りますが、その信仰には間違った解釈も見られます。

ふたりの司祭の噂はすぐに広まり、奉行所は、司祭たちの身柄を要求。信徒たちは従うことができず、身代わりに代表者4名が出頭することに。

4名は許されず、波頭に立てられた十字架にはりつけにされてしまいます。

信徒たちはひそかに十字を切り、ロドリゴは嘆き、モキチは十字架の上で賛美歌を歌っていますが、神は沈黙しています。

Amazonプライムビデオで見る 沈黙-サイレンス-

沈黙-サイレンス-の実話要素

江戸幕府のキリシタン弾圧はご存知の通り実話です。

フェレイラも実在の人物で、穴吊りにされて棄教したのも、その後沢野忠庵と名乗って日本で暮らしたのも史実通りです。

Wikipedeiaのクリストヴァン・フェレイラ

ロドリゴというパードレは遠藤周作の創作と思っていましたが、モデルになった神父さんがいたそうです。

ジュゼッペ・キアラという人。

クリスチャン・トゥディというサイトに記事がありました。

映画「沈黙」 ロドリゴ神父の実在モデルとなったキアラ神父の信仰

物語の舞台となった長崎に五島という島は実在しますが、トモギ村は架空の村です。

ですが、長崎の黒崎村という村がモデルのひとつだそうです。

村には「沈黙の碑」と名付けられた碑とともに文学碑が建てられ、そこには

人間がこんなに哀しいのに
主よ
海があまりに碧いのです

遠藤周作

と刻まれています。

ここ→沈黙の碑|遠藤周作文学館 に画像があります。

(映画「沈黙-サイレンス-」のロケ地は台湾です)

沈黙-サイレンス-の感想など

キリスト教の独善性?

ロドリゴたちが来なければ事態はだいぶマシだったように思えてなりません。

ポルトガル人司祭がいてもいなくても、キリシタン弾圧はあり、信仰を隠し続けなければならないことに変わりはないのですが、司祭がいれば隠すのがますます大変になります。

神父のいない社会では充分な儀式も行えず、物足りなく感じることもあるでしょう。

でも、逆に言ったらその程度のことです。

神父がいたって年貢が軽くなるわけではなく、苦役に耐えるための救いや希望はなにもキリスト教だけがもたらせるものでもありません。

来るなと言っている場所へ不法入国してきて匿ってもらう彼らは、いたずらに隠れキリシタンたちの苦悩を深めているとも言えます。

キリスト教だけが正しく、キリスト教のない世界は不幸な世界と信じ込んでいるからそんなことができるのでしょう。

キリスト教の独善性なのかな?と考えたりもしますが、この映画は、それを理解している立場で作られています。

強引に宗教を持ち込み、それによって傷つく人々にも信仰を強化するよう働きかける、当時の布教を必ずしも肯定的に見てはいない節は、作品のあちこちに窺えます。

他の社会には他の社会の考え方があり、どこかの正義が別の場所では過ちになりえることは、グローバル化の進んだ現代では常識ですが、18世紀の世界にはそんな意識はなかったのでしょう。

キチジロー

「一昔前なら良い信者として死ねたのだ」と本人が言うように、状況が違えばキチジローは裏切り者になることもなく、平凡で善良な一信者だったかもしれません。

しかし過酷な運命の中キチジローの歯車は狂います。

もはや家族はなく、人質になるよう強要される立場に置かれる身では、今さら高潔を装う必要もありません。

切支丹が一様にためらう踏み絵をキチジローだけは簡単に踏みます。

それでいてすがるものはやはり神の他になく、懺悔しては棄教し、また懺悔して裏切り…

キチジローは最低の信者ですが、彼は私たち全員が多かれ少なかれ隠し持っている弱さを体現しています。

キチジローの行動をどう思うかもまた、人それぞれでしょう。

物語に没入しているときには、信念と信仰を選んで死ぬ信者たちが正しいことをしているように感じますが、見方を変えれば、「絵を踏む」というまるで本質的でない行為にこだわり命を粗末にしたと取ることも不可能ではありません。

逆に己の醜さや未熟さをさらけ出し、軽蔑されることも厭わず生きる道を選ぶキチジローには独特の強さがあります。

開き直ることができなかったのは、理想の信者、理想の人間でありたい気持ちを捨てきれなかったらであり、そんなキチジローは根っからの悪人とも違います。

不完全さと複雑さを持つキチジローは、物語の中で最も生身の人間らしい存在ですらあります。

原作にもキチジローは登場しますが、特に映画で窪塚洋介の演じたキチジローは魅力的な人物でした。

形式を持たない信仰の難しさ

絵を踏むという行為と命。

どちらを取るかと迫られなくても絵を踏むのが普通の人間ではないのかなと、ずっと思っています。

当時、踏み絵を拒んで投獄された人々の心情は想像するほかありませんが、正直なところ理解に苦しみます。

信仰は心の中にしまっておけばいいのではないかと思うのです。

トモギ村では爺さまが儀式を執り行っていましたが、そうした集まりは危険だったはず。

なのになぜ儀式が必要なのか、なぜ集まって祈るのか、なぜカタコンベを作るのか。

それが神の存在を実感できる行為だからなのかもしれませんし、そうした形式があってこそ信仰を深めていけるのかもしれません。

キリストの絵を踏み、転びバテレンとなったロドリゴは、生涯神の名を表立って口にすることはありませんでした。

しかし、棺に納められたロドリゴの手には、妻がひそかに忍ばせたロザリオがありました。

あの踏み絵の夜、形式の上にあったロドリゴの信仰は消え、もっと別な、ロドリゴだけの解釈に基づく新しい信仰が始まったのでしょう。

それは、踏み絵を前にしたロドリゴにフェレイラの言う「教会の裁きよりももっと大事なこと」という言葉に集約されるもので、実に孤独で、それでいて安定した信仰です。

みだりにおすすめできない傑作小説 原作「沈黙」

原作の作者遠藤周作はクリスチャンでした。

宗教についてさまざまな疑問を持ちながらキリスト教徒であり続けた作者の一大傑作が「沈黙」です。

一言で言ったらすごい本。

傑作中の傑作です。

でもおすすめしません。

私はキリスト教徒ではありませんが、神の沈黙という厄介な問題を考えたことがないわけではありません。

多くの人がそうだと思います。

そんな永遠のテーマにあまりに正面から切り込んでいる「沈黙」は、読んだらしばらくは口がきけなくなるくらいに重い小説です。

何より、原作では穴吊りシーンが濃厚です。

映画では意外にあっさりしていて、状況も少し違います。

原作のロドリゴは「棄教すれば彼らを助けてやる」という取引条件が最初から提示されている中、姿の見えない信徒たちのうめき声を聞かされるのです。

夜が明けるまで葛藤にもがいたロドリゴがついに「踏む」と言うあの場面は、思い出すだけで胸が痛くなります。

それでもいいよと言う方は是非読んでください(笑)

上に書いたように、ロドリゴの残りの人生が彼だけの聞いたキリストの声を信じて生きるものだったとすれば、決して悲しいばかりの物語ではありません。

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